長野潔先生と松本岐子先生との関係は、ホームページの最初のご挨拶のページでも触れていますが、もう少し書き加えてみたいと思います。
長野潔先生は、時代の遙か先を進まれていました。 今でこそ、「長野式治療法」と言えば‘扁桃’と言われるほど有名な治療も、当時ではそれを理解する人はほとんどいなかった、と長野先生は言われました。 現在では、扁桃は免疫器官としての働きが有ることが分かっていますが、当時、「扁桃病因論」を発表していた長野先生を、「凄い!」と認めたのは、松本岐子先生だけだったのではないでしょうか。
『医道の日本』誌に度々論文を発表されていましたが、その投稿への反響はほとんど無く、自分を理解してくれる人は、この日本にはいないのか…と失意の中にいたそうです。 先生は、そのときのお気持ちを、土田杏村という広島の哲学者の言葉で話して下さいました。
◆同時代で理解されなくても、誤解の淵にさまよい、いつの日かやがて理解される。 誤解の中に生を終えても、寂しさに耐え得る人間こそ、本当に強い人間である。
まさに、先生の当時のお気持ちが表れていると思います。
しかし、先生にも、‘いつの日かやがて理解される’日が近づいていました。 『鍼灸臨床わが三十年の軌跡』の‘我が師匠’のところに、あるように、松本先生は、『医道の日本』誌のバックナンバーを調べて、師となる人を必死で探されていました。 松本先生は、当時の『医道の日本』誌に掲載されていた鍼灸師で、条件に当てはまる人には、ほとんど訪問されたそうです。 既に、アメリカに行かれていた松本先生は、それらの鍼灸師を訪れるために、帰日するときには、私に先に電話があり、「〜を買っておいて…、〜のビデオを撮っておいて…」などと連絡がありました。
頼まれたものを渡したりするために、新宿の広い喫茶店で会い、松本先生からは、そのときに訪問した何人かの鍼灸師から得たものを教えて下さいました。 しかし、あるときから、大分だけに行かれるようになりました。 一度、『医道の日本』社の編集長から、「松本先生は、今、日本のどこにいるのですか?」と電話がきたことがあります。 「大分の長野先生のところに行かれて、それから帰られました」とお伝えすると、「長野先生だけしか会わなかったの?」と驚いた様子でした。 その頃は、『医道の日本』社でも、長野潔先生は、単なる地方の鍼灸師の One of them ときり考えておられなかったようであり、松本先生がその凄さに惚れ込んでいるほどの認識は無かったように思われます。
前述したように、それまでに、何度も『医道の日本』誌に投稿されていたにもかかわらず、長野潔先生の治療の本当の素晴らしさを理解した人は、どこにもおられなかったと思われます。 余りにも偉大すぎて、近くで長野先生に触れる機会のあった人も、本当の姿に気がつかなかったようです。
理解されずに、孤高の鍼灸師として治療や執筆に専念されていたときに、突然、アメリカから生きの良い女性が、先生の治療に非常に興味を持ち、やってきたのです。 もちろんその女性こそが、松本岐子先生でした。 先生は、本当に嬉しかったでしょう。 「まさか、自分を理解してくれる人がアメリカから来ようとは思いませんでした」と、しみじみと語られたことがあります。 初めてご自分を認めてくれたばかりでなく、非凡な才能を持った松本先生に、自分の治療を伝えるのはこの人と思ったのでしょう。
長野先生は、時間の許す限り、松本先生にご自身の体系立てられた様々な治療を教えられ、また、求めていた治療を学べる喜びに、松本先生も乾いた砂が水を吸い込む如くに、先生の教えを吸収していきました。
長野先生は、「トイレのときでも、戸の外に立って質問してくる熱心さには頭が下がります」とおっしゃっていました。(ただ、ちょっと、落ち着かなかった…とも漏らされていました) また、「岐子さんには内緒だが、岐子さんが帰った後、熱を出し、家内が心配したことがあります」とも言われたことがあります。 松本先生の熱意に、長野先生が、全身全霊で答えていたということでしょう。 これこそが、晴らしい師弟愛と思います。
既に、20回程行ってきた松本先生の日本のセミナーでも、毎回、「長野先生が〜とおっしゃっていました」と、新しく耳にする知識が止めどもなく語られます。 如何に、長野先生が松本先生に多くのことを伝えられたか分かります。 長野先生の名人芸の脉診や腹診、あるいは、「火穴」診断など、多くの診断方法がありますが、他に、豊富な経験から得られた知識が、どれほど先生の治療を豊かにし、診断や治療を支えているか分かりません。
例えば、不眠症の患者さんに、「内環跳」を使用されることがあります。 脉診からの治療はもちろん行いますが、「内環跳」は、腹圧を上げ、腹を締める働きがあります。 不眠症の患者さんは、腹が緩んでいることが多いから、「内環跳」が良く効きます…、と言われました。 あるいは、腸骨窩部に鬱血が起こると食べ物がつかえることがあると言われ、こんな時には心因性骨盤鬱血処置(「陰稜泉」)が効果があることがあると言われました。 このようなことは、ほんの一例であり、治療を見学すると、患者さんの症状や愁訴に即した、実に多くのことを教えて下さいました。 また、質問をして、答えられなかったということは、まず、ありませんでした。 この治療のベースにある豊富な知識こそ、脉診に劣らず重要な「長野式治療法」の神髄と思われます。
前述しましたように、長野先生の膨大な知識の多くが松本先生に伝えられました。 ですから、長野潔先生の亡き後、松本先生のセミナーは、「長野式治療法」を学ぶ人には必見のものです。
また、松本先生の著書には、松本先生だけに伝えられたのだろうと思われる内容が、随所に、見られます。 長野先生の天才的なものを感じ取り、先生に食らいついて、知識を貪欲に吸収して行かれた松本先生ですが、松本先生も、鍼灸の進歩のために生まれてきたような鍼灸の革命家だからこそ、時代の遙か先を行かれた長野先生の凄さを嗅ぎつけたのだと思います。 まさに、天才のみが天才を知るのでしょう。 日本人の特性でしょうか。 本当の実力が見えず、血縁や学歴、肩書き…など、表面でしか判断できないのは、大変に寂しいことです。
活躍するには、狭すぎた日本を離れた松本先生だからこそ、日本人の誰もが発見できなかったダイヤモンドの原石を発見されたのでしょう。 また、何の肩書きも持たない松本先生の素晴らしさを、実力主義のアメリカで、世界屈指のハーバード大学だからこそ、発見されたのかと思います。 また、松本先生は、それを単に吸収しただけでなく、咀嚼し、「長野式治療法」を更に深化させ、自らが、また、今の鍼灸の相当先を行くようになっています。
長野潔先生が、有名になられて、教えを請う人達が増えてきたときには、この世を去られてしまいました。 松本先生がそうならないように、松本先生がお元気なうちに、是非、皆さんも松本先生のセミナーに参加されては如何かと思います。 長野式の真髄を受け継いだ松本先生の、「長野式治療法」の真の実力に触れることが出来ます。 松本先生が見つけられた治療法を、長野先生が理論付けして広まったものもあります。 その代表的なものが「ネーブル処置」です。 松本先生が、「臨床的に価値のあるものを、長野先生に使用してもらうと、先生がそれを理論付けして再構築して下さる」と言われました。 長野先生亡き後、今度は、それを松本先生が行っています。 松本先生のセミナーのテーマのベースに横たわっている治療法の多くは、長野先生の治療法であり、それを古典の裏付けと現代医学に結びつけて再構築されています。
松本先生のメインテーマが、『鍼灸臨床新治療法の探究』P66「片手症の鎮痛効果」からヒントを得たセミナーがありました。 右側の「列欠」「懸鐘」「外関」それに「左復溜」を使用したものです。(右側弯の場合) 松本先生が「先生、この処置は本当に良く効きますね!」と言われたのに対し、長野先生は、「そんな治療をしましたか?」と言われました。 長野先生は、この処置をすっかり忘れていました。 余りにも多くの治療法を発見した先生ですから、逆に、忘れるほど治療法があるのでしょう。 翌日の治療から、長野先生はこの処置を再び様々な患者さんに使用され、経穴数を減らして「陽輔」「外関」を使用した‘側弯処置’とされました。 (「陽輔」と「懸鐘」は、いずれも、長野先生は「髄会」として、反応の有る方を使用されます)
長野先生の治療は、訪れる度に新しい治療を開発され、変化していました。 この師に、やはり、この弟子ありで、松本先生も、セミナー毎に毎回メインテーマが異なり、どんどん治療法が変化し、深化しています。
京都会場と大宮会場のセミナーでは、たった4ヶ月間だけしか有りませんが、この短い期間でも、同じ治療ではありません。 長野先生や松本先生を古くから良く知る人が、「いつも新しいことを考えないとならないので大変ですネ」と言われたことがありますが、全く逆で、お二人とも、新しいことにチャレンジすることが楽しくてたまらず、その結果、毎回治療が変わっていくのでしょう。
長野式研究会の私の講座を、2度見学されたジャーナリストがおられます。 その方が、「こんなに明るくオープンな講座は珍しい」と言われました。 それも、長野先生や松本先生が、余りにも多くのことを知っておられるので、秘密にする必要がないということでしょう。 私のような駆け出しでさえも、基礎講座の内容が、毎回変わっていると言われるのですから、その恩師たちの変化は目まぐるしいものであり、付いていくことが困難なほどです。
長野先生の治療は、松本先生がいなければ日の目を見ることもなく、地方の単なる名人芸で終わってしまったでしょう。 また、松本先生も、長野先生の治療がなければこれ程までに深く進化した治療法はできなかったでしょうし、古典に結びつけることもできなかったでしょう。 そして、ハーバード大学の松本先生はいなかったでしょう。
長野潔先生は、亡くなる直前、入院されているベッドで、松本先生から送られてきた、ハーバード大医学部新年度の松本先生の講座案内を、非常に喜んで見られていたそうです。 その講座案内の表紙には、松本先生の著書の表紙にもなっている、長野潔先生の色紙の「心」という文字と長野先生のお名前が書かれていて、落款が押印してあります。 長野潔先生の治療が、松本先生の治療法によって、ハーバード大学医学部に認められたのです。
長野潔先生と松本岐子先生は、切っても切れない絆で結ばれ、互いが刺激し、補完し合い、まさに、Wの‘きよし’‘きいこ’、W・Ki → w・key でしょう!
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