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長野式研究会




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ネット講座

●基礎講座からの便り vol.7


‘ネット基礎講座’  コーヒーブレイク − A
「コラム天王寺屋 …(2)」  『織田信長の安土城は崑崙山がヒントか?!』

注)表記できない文字を含んでいるため一部見にくい箇所があります。
元の文字表記が必要な場合はこちらからお願いします。



‘ネット基礎講座’の‘問い−(3)’の応答が少なく、以前に書きましたように、長野先生が『医道の日本誌』に投稿された‘脉状私見’の返事を待っている気分で(相当レベルが低いですが…)時間が過ぎ、もうアップしなくてはまずいなー…、てなことを考えているときに、‘天王寺屋’からタイミング良く原稿が送られてきました。
今回も結構長い原稿です。
私の原稿より相当内容が深く、色々調べて書かれたにもかかわらず、私より速い。
そして、この原稿はスマホで送信されてきます。
小さな画面のスマホに打ち込んでいる和田先生の姿を想像すると、頭が下がります。

今回も、一見関係のなさそうな‘織田信長’・‘崑崙山’という事柄を、歴史に絡めながら、古典を紐解き、最後の落としどころは鍼灸治療!!
凄いと思いません!!
この広大なスケールの想像力!!
西の岐子先生か、東の天王寺屋か…という古典と鍼灸治療をかけた世紀の頭脳の戦い!!!
(岐子先生も、『医道の日本誌』に〔古典の新解釈!〕「松本岐子の鍼灸臨床」が連載されています)
この天下分け目の合戦に臨場できるこの幸運と幸せ!!

さあ、天王寺屋の幕があがります。
始まりー、始まりー。
かけ声の準備はできましたでしょうか!

待ってました!! 天王寺屋!!

『織田信長の安土城は崑崙山がヒントか?!』

今年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」は本能寺の変で有名な明智光秀が主人公ですが、光秀役を長谷川博己、斎藤道三役を本木雅弘といったキャストで放映され、特に本木の道三は評判が良かったようです。
最新の資料に基づき、光秀の従来の印象とは違った人物像を描くという試みのようですが、やはり地味な感は拭えなくて、今のところまだみておりません。
今般のコロナ騒ぎで撮影もままならず大変のようですが、光秀といえば当然織田信長なので、このまま続けばいずれ安土城が登場するわけです。
信長によって築城された安土城は、完成から3年後の1582年の本能寺の変の後に焼失してしまい、現在は石垣や天守閣(安土城では「天主」と言われた)の礎石などが遺構として残っているだけなのですが、いまの近江八幡市の安土山(麓から約110mほどの高さ)の山頂に築かれた天守閣の豪華絢爛さは類を見ないものだったと言われます。また城を中心とした町作りは、その後の都市設計に決定的な影響を与え、信長は城の変革者でもありました。
ではその安土城が崑崙山と一体どういう関係があるというのか。

昨年12月に大阪で松本岐子先生のセミナーがあり、私は都合がつかず行けなかったのですが、参加者の話によると、岐子先生は中国の『続博物誌』という古い文献を引用されたとのことでした。治療のことはここでは述べませんが、『続博物誌』が気になったので調べてみました。
「続」となっていますが、最初の『博物誌』は西晋の時代(3世紀頃)の政治家でもあった張華という人の書いたもので、各地の地理、動植物、風俗、人物あるいは神話伝説や幻想的な事柄などについて数多く記された百科全書的書物でした。この『博物誌』に倣って南宋初期(12世紀頃)の李石という人が、いろいろな文献にあたって異聞を集めて著したものが『続博物誌』です。李石については詳しいことはわかっていません。
この『続博物誌』の原文が見られるサイトを見つけて読んでみたのですが、ある文章にとても惹きつけられました(岐子先生の引用部もとても興味深いのですがそことは別のところです)。
それは『水経注』という文献から引用されたものでした。
『水経注』は、おそらく3世紀頃の著作と思われる『水経』という著者未詳の書物に、北魏(5〜6世紀)の道元(れきどうげん)が注を施したもので、中国各地の河川について、その水路ごとの地形、産物、鉱物、風俗、歴史などの様々なことが記述されています。
私が注目した文章は、『水経注』の冒頭にある「河水」(黄河のこと)から引用されたもので、黄河が崑崙山を源とすると説明された後に出てきます。以下の通りです。

「崑崙之山三級。下曰樊桐、一曰板松。二曰玄圃、一名風。上曰層城、一名天庭、是謂大帝之居」
「崑崙山は三つの山からなる。低い順に下は樊桐、別名板松ともいわれる。次は玄圃、別名風ともいわれる。一番上が層城、別名天庭ともいわれる。ここが大帝の住まいである。」

思わず「これって「安土城」じゃん!」と。そしてもしや信長はこれを読んでいて、天守閣のヒントにしたのではないかと。
そもそも崑崙山とは古代中国の神話において最も神聖な山とされ、古くは山海経(せんがいきょう)に「帝の下都(地上の都)」とあり、黄帝の居とも、後には西王母や神仙の住む山ともいわれ、天に通ずる神山とされてきました。信長も中国の伝説の山のことは耳にしていたろうと思います。
その最上部が「層城、天庭、大帝の居」であると。これを安土城に当てはめてみます。
まず「層城」。
信長は、天にも通ずるごとくの五層七重(外観は五層ですが内部は地下1階地上6階)で、高さ30mほどの天守閣を作りました。それ以前にも軍事施設としての層構造の櫓はありましたが、自らの権威を象徴するものとしての高層で立派な天守閣は信長が初めてでした。
以後の城造りの概念を変えたと言われます。
次に「天庭」。
城郭もまた信長が初めてとされる総石垣造りで、まさしく「天主の庭」です。また天守閣にはバルコニー的なものがあったという説が近年の研究で言われており、天主に謁見するための「庭」が設けられていたともいえます。
そして「大帝の居」。
信長は天守閣を住居としたといわれ、それ以降もそのような例はありません。
日本の大帝といえば天皇ですが、「天下布武」を謳った信長はおそらく自らを「大帝」と同定したのでは。実際天守閣から見下ろせる本丸に天皇行幸のための御殿をつくったといわれます。
崑崙山の記述はまさに安土城のコンセプトそのものではないでしょうか。
では信長が『続博物誌』もしくは『水経注』を読んだ証拠があるのか。

実のところ、そのような証拠があるわけではなく、結局和田の単なる妄想といえばそれまでなのですが、しかし信長は天下統一後に中国征服も目論んでいたと言われますから、このような書物に目を通す機会があったかもしれません。
そして1つもしやと思わせることがあるのです。
それは信長と上杉謙信との関係です。
1572年に当時岐阜城主であった信長と越後春日山城主であった謙信との間で軍事同盟が結ばれました。「濃越同盟」と呼ばれています。
この時期の戦国の様相を説明する余裕はありませんが、信長が武田信玄の脅威に対抗するための同盟と言っておきましょう。
信長側のみが人質を出すという謙信優位の同盟で信長が必死であったことがわかります。同盟は1576年に謙信が反信長勢力の本願寺と結びつくことで消滅しました。
同盟中は信長は南蛮風のマントを謙信に送ったともいわれ、それ以外にも当時信長のお抱え絵師であった狩野永徳の「洛中洛外図屏風」も送りました。長く上杉家に伝わり、現在国宝となっています。
この約4年間の同盟中に信長は謙信との交流の中で『続博物誌』を閲覧する機会を得たかもしれないと密かに考えております。
上杉家の蔵書が今の山形県米沢市の上杉博物館と米沢図書館で保管されているのですが、実はその中に『続博物誌』があるのです!
中国の明代の弘治乙丑(1505年)刊本となっています。
この本の写本が同盟中に信長の手に渡っていたとしたら。
因みに謙信との同盟解消は1576年の5月ですが、安土城の築城はその年の1月から始まっています。
実際には、謙信の跡を継いだ上杉景勝(謙信の養子)の側近であった直江兼続の蔵書の1つであった可能性が高いとも思われます。
直江兼続は学問に熱心であったことでも有名で、中国の史書や古典を数多く収集したといわれます。
1618年に米沢に建立された禅林寺に兼続が設けた禅林文庫は、兼続の蔵書を収蔵する学問所で、後の藩の図書館、藩校の前身ともなったそうです。
しかし謙信もまた少年時代の約7年ほどを、長尾家菩提寺の曹洞宗林泉寺の六代目住職で、当時の高名な知識人でもあった天室光育の下で学問の薫陶を受け、天室の高弟で林泉寺の七代目住職となる益翁宗謙と陣中で禅問答をしたともいわれるほど宗教心が篤く、教養の深い武将でした(謙信の「謙」は宗謙の「謙」をもらったもの)。
そのような謙信ですから『続博物誌』を持っていても決して不思議ではないとも思われます。
前述した『続博物誌』の原文を見たサイトとは、実は米沢図書館のデジタルライブラリーのことで、全文を見ることができます。全部で81コマの画像ですがその22コマ目に該当文があります。
何はともあれ崑崙山の記述、特に「層城」の文字を見たときにすぐに安土城が思い起こされ、想像が膨らんでいったものでした。

古典の文章に基づく歴史ロマンの旅、などと言うと単なる一人よがりと言われそうですが、しかしこのように想像を巡らすのもなかなか楽しいもので、思いがけない発見もあるものです。
話し自体は鍼灸のことではありませんでしたが、しかし「崑崙」といえば長野式岐子スタイルにとっては大事なツボでもあります。
脳底動脈処置あるいは心臓の反応点などとして頻用されます。
ではそのような臨床効果に対して「崑崙」はどのような意味を持つのでしょうか。
この点について岐子先生は英文の本にも書かれていますが、崑崙は天と地を繋ぐ場所であるとおっしゃっています。そして天に通ずる柱である天柱穴をターゲットとされます。
これは、前漢の東方朔という博学な政治家が著したといわれる「神異経」という伝奇集の中にある文章に基づくものと思われます。
「崑崙の山に銅の柱あり。其の高きこと天に入る。いわゆる天柱なり。」
臨床的にも崑崙は主に脳底動脈の充血の改善のために使用され、天柱エリアの圧痛を取る崑崙を取穴します。
また「心は君主の官、神明出づる」といわれることから、心臓もまた「大帝の居」といえ、崑崙が心臓の反応にも使われることも合点がいきます。
「四」についてもそうでしたが、「人体は宇宙の縮図」と考える古代中国の思想がツボにも反映されているのではないでしょうか。

最後にもう一つ想像を楽しんでみました。

頚から上は「天」ともいわれ、それこそ「天柱」で支えられているともいえますが、前述した山海経にあるように、崑崙山が「帝の下都」すなわち天帝の地上における都ということであれば、天の都を反映するものでもあり、そうであれば頭部、特に脳を崑崙山と考えてもいいかもしれない。とすると、
@脳は大脳、脳幹、小脳という「三山」から構成されている。発生学的にも前・中・後という三脳胞から発達している。
A脳の高次機能を司る大脳皮質は六層という「層状」構造を持っている。
B思考や創造を担う前頭前皮質は脳の最高中枢ともいわれ、いわば「大帝の居」であり、そのエリアに対応する頭部には天の庭ともいえる「神庭」、天に通ずる「上星」といったツボが存在する。
C黄河は崑崙山から流れるとされるが、人体では脳の脈絡叢で産生される脳脊髄液が黄河の水流に対応するかのようで、それは脊柱管に行き、近年では末梢の神経周膜まで行き渡るともいわれる。
崑崙山の描写はまるで脳の構造に対応しているかのようです。
ここでCに関して思いついたことは、脊髄液は一対の側脳室と第三、第四脳室の四つの脳室を循環しますが、脳に関係する腎経のツボで「髄府」という一名もある「四満」は、「四」つの脳室を「満」たす脊髄液に関係あるかもしれない。脳室は脳内の空間であることから「脳空」もどうか。それらの圧痛を「崑崙」や「髄会」で改善するなどして治療に繋がらないかなどと。髄液系の患者さんが来たら試してみたいところです。
Bについては、近年松本岐子先生が前頭前皮質(PFC)治療として「神庭」などを使用されているのが思いおこされます。

古典の知識が無くても臨床はできるわけですが、古典によって治療の背景を知ることでさらに応用ができるということもあるものです。
松本岐子先生は古典をベースにそれこそ信長的な大胆な発想で、数多くの貴重な治療法を開発されています。
もっともたとえ興味があっても、中国の古典は漢字だらけで原文を読むなど容易でなく、私も苦労して読んでおります。
明治書院の新釈漢文大系や平凡社の中国古典文学大系と言ったシリーズがあり、現代語訳がついて分かりやすく、自治体の図書館でも多くのところが収蔵していますので、たとえば松本岐子先生が引用される文献がそれらのシリーズにあったら、それを読んでみるなどもいいのではと思われます。

「安土城」の威容を、NHKがどのように再現するのかも興味があるところですし、そのうち「麒麟がくる」みはじめようかとも思っているところです。



安土山の南側からの遠景。崑崙山の三山のようでもある。(写真は「近
江八幡市観光振興計画」平成25年より。)




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